| 2006年8月17日(木) |
| おそロシヤ |
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「すずめ~めじろ~ロシヤ~野蛮国~クロパトキン~金の玉~負けて逃げるはチャンチャンボー~棒でたたくは犬殺し~シベリア鉄道長けれど~土民の口から吐き出せば~バルチック艦隊全滅す~すずめ・・・」
愚息が幼児期の頃、所謂「乃木さんのしりとり歌」を教えていたところ、山手線の目白駅を通過する時に「めじろ ロシヤ 野蛮国、、、、」と呟き出して慌てた事がある。
根室沖の露助が起こした殺人事件、やっぱりねと言う感じである。 |
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| 2006年8月16日(水) |
| 公約通りですが何か? |
小泉首相の靖国参拝に対して、予想通りの反応である。日本政府として執るべき立場は、この問題について「爾後支那朝鮮を対手とせず」で良いのではないかと考えます。東アジアの文明は一衣帯水と語られる事が多いのですが、仔細に見てみると支那や朝鮮と日本とでは文明の様相が極めて相違しています。
特に宗教に於いて、日本は臨機応変に、その時々の都合にあった宗教を摂取して来ました。多くの日本人は、神道によるお宮参り・耶蘇式の結婚・仏式の葬儀によって生涯を終えると言った具合で、特定の宗教宗派を深く信じている人は少数派です。宗教的な儀式のプロトコールは人生時々の歳時記を彩る道具にしか過ぎないと考えている日本人が大多数なのかもしれません。
お寺や神社にお参りに行くのに、自らを無神論者と云う不可思議な宗教観を持っているのが日本人です。しかしながら、日本人は信仰心が薄いと単純には言えません、寧ろ日本人は日本教とでも言うべき「宇宙自然を動かしている偉大な力に対して敬虔な祈りと畏れ」を有史以来忘れた事が無い信仰心に篤い民族だと思います。
日清・日露・満州事変から始まる中国大陸での戦いは、東亜細亜における支那儒教文明とロシア正教文明と日本文明の三つ巴の覇権争いに、西洋文明がその利害得喪から加わった文明間の争いであり。それは原爆に象徴される圧倒的な火力を備えた西洋文明を仕切り役にする事によって収まりを見ました。そしてそれが結果的には亜細亜の諸国家が西洋文明に併呑されることの閂となったのです。
靖国問題は以上の文明論的文脈から考える必要があると思います。東亜細亜に於ける諸文明間で起きた挑戦と応戦は、日本においては天皇の人間宣言を経て、天皇を神から象徴に置換し恰も西洋における立憲君主制のように看做すことによって、見事に日本文明の核である天皇制を換骨奪胎し民主主義を取り入れることに成功しました。日本文明に西洋文明を接木し日本と西洋の文明間の鬩ぎあいは止揚されたのですが、依然として東亜細亜には日本文明・支那儒教文明・ロシア正教文明間の覇権争いは、地下に蠢くマグマのように残ったと言う事実です。そのマグマが時折噴出す現象として歴史認識問題やら靖国問題があるのだと考えます。
従って、支那・朝鮮・ロシアとは今後も事あるごとに、この争いを表象する出来事が今後も頻発すると考えるのが至当だと思います。そしてこの争いは支那儒教文明とロシア正教文明が日本文明がそうであった様に西洋文明の重要なエートスである民主主義を包摂して止揚されることによってしか解決されないのではないかと思います。日本人にとっては気の重い話です。 |
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| 2006年8月14日(月) |
| 神道についての私観 |
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神道の神とGODは異質である。神道は西洋流の概念から言えば、アニミズム汎神論の宗教と定義されるかもしれない、一方宗教とはシュライエル・マッハーの言説によれば「聖なるものへの絶対帰依」とされる。
西洋流の物差で「神道」を見る事に、私は違和感を覚える、多くの日本人は先祖・自然・人工物etc.自分たちが決めたあらゆるものに畏れを抱き、それら精霊のお蔭様で心安く生かされていると感じている。
日本文明を発展させてきたエンジンは、何千年にも亘り培われてきた融通無碍な精神文化にあると言えば言い過ぎであろうか?
靖国問題を考えるにあたり、この精神文化に難癖をつける言論はナンセンスであり、諸外国の感情に配慮すると言う耳触りだけが良い主張に至っては意味不明の戯言である。
靖国神社境内の土産物屋で「純ちゃん饅頭」が売れているそうである。神道は懐が深い。 |
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| 2006年8月12日(土) |
| 靖国神社のこと |
小生はかねてより「靖国」は日本人全体の「まほろば」ではないと主張している。理由は「過去の独り言」に記しているので、敢えて、ここではその理由の詳細は述べないが、それをもって靖国神社の存在を否定するものではない、大東亜戦争において「靖国で逢おう」とお国のために散華された「兵士」と「靖国」との黙契には重いものがあると心得ている。
公人の靖国参拝問題は外国人にとやかく言われる筋合いのものではない、我々日本人の問題である。そこに祀られてある英霊に手を合わせ「戦争には敗れましたが、お蔭様で日本はこんな立派な国になることができました」「靖国に眠る英霊の御霊安らかなれ」「再度日本が戦争の惨禍に見舞われぬよう、お守り下さい」と国に殉じた方々へ語りかけるのが悪い事とは露ほどにも考えた事は無い。
「東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す」の大義のもとに戦った帝国軍人の多くは、死すれば靖国に還って英霊となる約束に帰依していた事を我々日本人は忘れてはならない、その死生観についての善悪を戦後の後知恵で判断しようとする事は、とんでもなく傲岸不遜で許すべからざる態度であると思う、外から聞こえてくる雑音は無視すれば良い、いちいち抗弁しなければならない問題ではないのである。
小生は公人としての靖国参拝には、その建立の歴史的経緯から疑問を持っているが、8月15日に小泉首相が参拝されること希っている。何故ならそれが現下の東アジアの国際情勢にとって日本外交がとるべき姿勢を暗喩することにも通じるからである。国益を慮らぬ外国勢力に阿る売国マスコミには黙らっしゃいと一刀両断すればよいだけの話である。 |
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| 2006年8月11日(金) |
| ご冥福をお祈りします |
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砲丸投げの森千夏選手(26)が9日ご逝去された。
先のアテネオリンピックデレゲーションのお一人である。アテネではハンマーの室伏選手に注目が集まっていたが、その中で砲丸投げに女子日本人選手が出場することに驚きを感じていた、森選手は18メートル22の日本記録保持者で日本の投擲競技の進歩に感心した事が思い出される。
男子7.26kg.女子4.00kg.の鉄球を遠くへ飛ばすこの競技はいかにも力自慢を競うように見えるが、これほど重いものをベースボールの様に投げようものなら、肩が抜けてしまう事を砲丸を持った事がある者なら理解できる。
「砲丸投げ」ではなく「Shot Put」(撃ちだして置く?)と言う英語名のほうがピッタリくる、遠くに飛ばす為には力だけではない身体調整力が要求される競技である。
森選手のご冥福をお祈り申し上げます。 |
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| 2006年8月9日(水) |
| ふと思った事 |
東京・東大和市の特別養護老人ホーム「さくら苑」で、男性職員2人が認知症の女性入所者(90)への性的虐待とのニュースに、学生時代に読んだ深沢七郎の「楢山節考」が思い浮かんだ。当時小生は深沢の左翼的言説がどうかと思ってはいたが、天皇制や三島事件に関しての本質を抉り出す彼のもの言いにはこれは手ごわい左翼?が現れたものだと妙に感心したものであった。
楢山節考は棄老伝説をモティーフにしたずしりと重い読後感を残す小説であった。語弊があるかもしれないが、特別養護老人ホームは現代の姥捨山である。過去の姥捨山との違いは死が積極的か消極的であるかの違いにしか過ぎない、そこにあるのは予定調和としての同じ人の死である。人間には幸せな死の形があるのではないかと思う、果たして息子に背負われ「お山まいりに赴いたおりん」と虐待をうけた「認知症の女性入所者」とではどちらが幸せな人生なのか小生には判断がつかない。
立止まって目の前を見つめた。楢の木の間に白い粉が舞っているのだ。
雪だった。辰平は
「あっ!」
と声を上げた。そして雪を見つめた。雪は乱れて濃くなって降ってきた。ふだんおりんが、「わしが山へ行く時ャきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになったのである。辰平は猛然と足を返して山を登り出した。山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。知らせようというより雪が降って来た!と話し合いたかったのである。本当に雪が降ったなあ!と、せめて一言だけ云いたかつたのである。辰平はましらのように禁断の山道を登って行った。
おりんのいる岩のところまで行った時には雪は地面をすっかり白くかくしていた。岩のかげにかくれておりんの様子を窺った。お山まいりの誓いを破って後をふり向いたばかりでなく、こんなところまで引き返してしまい、物を云ってはならない誓いまで破ろうとするのである。罪悪を犯しているのと同じことである。だが「きっと雪が降るぞ」と云った通りに雪が降ってきたのひとことだ。これだけは一言でいいから云いたかつた。
辰平はそっと岩かげから顔を出した。そこには目の前におりんが坐っていた。背から頭に筵を負うようにして雪を防いでいるが、前髪にも、胸にも、膝にも雪が積っていて、白狐のように一点を見つめながら念仏を称えていた。(楢山節考より) |
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| 2006年8月8日(火) |
| 亀田騒ぎ |
タイトルマッチの判定がどうのこうのと騒ぎになっているようである。プロボクシングにフェアーな判定を求める事は不毛と考えるので小生はとやかく言わない、戦いが始まる前にリングアナが宣言した通り「It'
s a show time 」なのである。
その見世物に過ぎぬものに、親子愛だとか兄弟愛をからませて、一つの美談を作り上げようとするTBSの節操の無さにあきれるばかりである。このテレビ局はオウム幹部に事前にVTRを視聴させ、それが坂本弁護士一家の皆殺し事件につながった過去を持っている。この放送局に免許を与える必要があるのかどうかも疑問である。
TBSは亀田父子の親子愛を賞賛する物語をでっち上げたいのであろうが、彼ら家族の極めて身贔屓で偏狭で不寛容で無礼な愛情表現のスタイルは、嘗ての奥ゆかしさと他者に対しての思いやりを尊ぶ日本人の感性からは程遠いものであり、そのような立ち居振る舞いや考え方をする者は、擬制的な家族関係を契る暴力団などの反社会的な奇形にしか見られなかったと思うが如何であろうか?
小生は彼らの親子愛に涙する日本人がいることに、一種の驚きと日本人として気恥ずかしささえ覚えるものである。レスリングの浜口親子やゴルフの横峰親子には微笑ましさが感られるのに対して亀田親子には共感できない無いのは何故であろうか?天下茶屋でしか通用しなかったパフォーマンスが日本全国に蔓延するの真に恐れている。 |
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| 2006年8月7日(月) |
| まさに正論だと思います。ソース:産経新聞1面「日本よ」石原慎太郎 |
この所の北朝鮮からのミサイル発射に関しての騒ぎを眺めていて、 関係諸国の論調にある決定的な認識がかけているのに気付かされる。それは北朝鮮のミサイルがまがいもなく日本への害意にのっとって運用されるとするなら、わが国にはそれに対して備え、報復を行う国家としての権利がありまたその能力も十分にあるということだ。
北朝鮮の高官たちは日本がもし拉致問題にからめて経済制裁を行うなら瞬時にして日本を火の海にしてみせるなどと揚言しているが、そうした軍事的能力が彼等にあるかどうかは疑問だが、仮にそれがあるとしてもなお、実際にそれを行うほど彼等も愚かではありはしまいし、もし彼等がそれを行ったとしたらアメリカは日米安保にのっとってその報復を行わざるを得まい。相手が中国となればアメリカに躊躇もあろうが、北朝鮮と同盟国である日本のいずれかを取るかという選択にアメリカは躊躇しまいし、すればアメリカは踏み絵を踏み外すことにもなる。
アメリカがことを起こせば北の独裁政権は瞬時に近く崩壊しようし、非難こそしても、それは実は中国にとっても望ましいことに違いない。南の韓国が歯がみしようと、今現在実質的に中国の属国である北朝鮮は、はっきりと中国の所領となってしまうだろう。
そんな推測分析の前に、北のミサイルが実際に日本に射ちこまれた際、いやその可能性が如実なものとなった際の日本の選択について、実は誰もそれをことの重要な要因として考慮に入れていないということの軽率さ不思議さである。それは多分日本の「平和憲法」なるいびつな国家規範が日本人に与えてきた思考への制約が、実は関係諸国にも日本の選択に関してのある種のアプリオリを設定してしまっているからに違いない。それは核武装を含めての日本の強力な軍事国家化という選択の可能性についてである。
以前、私も属している自由社会研に亡き盛田昭夫氏との関わりで度々来席していたキッシンジャーが、日本側の誰もいい出しもせぬのに、日本の核武装の可能性について何度か付言していたのを今になって強く思い出させられる。アメリカの国力が衰退し、日本がアメリカ以外の国とのかかわりで追いつめられた時の選択として、と彼はいっていたが。
先月のウォールストリート・ジャーナル紙は社説として、北朝鮮問題での中国の拒否権発動や、韓国の日本からの敵基地攻撃論への非難は「日本に軍事力増強の必要性を認識させるだけだ」と警告し、日本の「国家主義的感情が高まれば核保有の抑制は難しいこともありうる」と記している。
日本という国は外圧に弱く、外圧によって往々思いがけぬ方向転換を行ってきたが、将来北朝鮮なり中国なりによる日本領土への明確な侵犯、毀損が行われたならばそれは彼等自身に向けての強い引き金になりかねぬ、ということを関係国は知るべきに違いない。そして日本にはそれを極めて短時間で実現するための技術を含めた潜在能力があるということを、すでに熟知しているアメリカや中国だけではなしに、遅ればせながら日本人自身も知っておくべきに違いない。「日本こそが、眠れる獅子なのだ」というのは岡崎久彦氏のかつての至言だが。
アメリカの国力が衰退傾向にある現今、かつてのソヴィエトに次いでの中国との新しい緊張関係の舞台となった東アジアは、かつての冷戦の主戦場だったヨーロッパに比べてアメリカにとっての比重は軽いものに違いない。そうした戦略構造の中でアメリカが日本に対する責任を放棄した時、我々はそのまま野垂れ死にして中国の覇権に組み込まれるつもりは毛頭ない。
私はかつて驚くことに日本の議員としては初めて、アメリカの戦略基地のNORADとSACを視察し当時の核戦略の技術体系からして、日本で喧伝されているアメリカの核抑止力など実在しないと、NORADの司令官の見解を引用しながら論証し、拙速な論評で核保有論者とされたことがある。加えて当時の繊維問題摩擦を背景に行われた世論調査の結果は、日本の核保有の是非についての非が36%、是が35%という際どい数字だったものだ。
しかし、核戦略の技術体系が進歩変質してきた今、アメリカと中国のレベルの格差はかつての米ソ間以上のものがあろうが、戦争による人命の損失についての価値観に関してはソヴィエトと中国ではこれまた著しい差がある。ポンドピーに問われて、アメリカとの核戦争で三千万程度の人命の損失は一向に気にしないといい切った、現に合わせれば七千万もの国民を餓死も含めて死に追いやった毛沢東を唯一の国父として仰ぐ共産党政権がそうした伝統と信念の下に進めば、東アジアを舞台にした緊張が高まっていくことは必至だろう。
質の悪い高度成長を続ける中国の経済成長が質の良い低成長に変わる可能性は見られず、このままいくと遅くとも北京オリンピックの直後、中国バブルは破綻し、政府が膨大な量の不良債権を抱えることになるのは必至である。中国の全企業の内政府関係の公営企業の数はその60%、そして中国で出回っている金融資本総量の70%は公営企業に向けられているのだから。
そうなった時、北京政府が国民の目をそらせ経済破綻を糊塗し、内部の分裂を食い止めるために軍事的な冒険主義に走る可能性は十分にありえる。それに間に合わせての準備の時間はあまりないということを我々は知るべきに違いない。 |
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| 2006年8月5日(土) |
| 王子製紙のTOBに思う |
北越製紙に対する敵対的TOBと騒がれているが、この買収劇は村上ファンドや堀江ライブドアーがやったマネーゲームとは違います。背景には将来、株式交換による企業買収が外資にも可能になる事への防衛策の布石であるとも考えられます。
粗鋼生産量世界1位の印僑ミタルも国を跨ぐ買収劇を繰り返して今日の地位にのしあがったのです。これから先、外社による買収の渦に日本企業も否応無く巻き込まれていくと思われます。仮に新日本製鉄がミタルスティールの軍門に降る事があれば日本人はそれにどう折り合いをつけていくのでしょうか、その時になって初めてグローバルスタンダードの真の意味を知っても遅いのです。
今日、資本集約型の産業が生き残る前提として規模の利益が必要とされるのが現実となっています。日本の産業史を紐解けば、王子製紙は渋沢栄一によって創設された国策企業でありました。
敗戦後、過度経済力集中排除法によって苫小牧製紙・本州製紙・十條製紙(後の日本製紙)に分割された沿革を持っています。その王子製紙がTOBによって、先祖帰りして紙パ業界の王者として君臨し生き残れるのかどうか見ものであります。弟会社の日本製紙がその阻止を目論んでいるのも歴史の因縁として見れば興味深いものです。
最後にくれぐれも言っておきます、王子製紙が所有していた樺太の森林と工場設備は敗戦によりロシア所有となり現在も稼動しているそうです。今度はグローバルスタンダードよって紙パ業界が外資に買収され、日本の多くの森林が外人の手に落ちてしまったら政府が推し進めた規制緩和は一体全体誰の為のものであったのかが問われるでしょう、竹中平蔵大臣を誅するだけでは済まない問題です。 |
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| 2006年8月3日(木) |
| 極めて正論、全文を掲載させていただきます |
先月二十日、靖国神社のA級戦犯合祀に昭和天皇が不快感を示したとする当時の宮内庁長官のメモが公表され、大きな衝撃とともにさまざまな議論を呼び起こしている。しかし、管見の範囲では、どの議論もそれまでの自説持論を衝撃から守ろうとするものばかりで、大事なことを論じようとしていない。大事なこととは、国家意志と天皇制の整合性の問題である。
A級戦犯となったのは、普通の意味での犯罪者ではなく、国家意志の遂行者・体現者である。だからこそ戦勝国がその首を求めたのだ。A級戦犯は日本国のために日本国を代表して命を投げ出した。個々のA級戦犯の人物・能力への評価はいろいろありうるが、それがどうであろうと、国家意志の遂行者・体現者だという位置づけは揺るがない。それを天皇が否(いな)んだということは、国家と天皇との間には、普段は見えないが、本質的な乖離(かいり)があるということである。
近代国家でなければ、こうした乖離は生じない。近代国家においては、国家が天皇を裏切り、天皇が国家を見限ることがありうる。二・二六事件にもこうした乖離がうかがえるし、三島由紀夫は『英霊の声』で「などてすめろぎはひととなりたまいし」と怨言している。
最近の天皇制議論といえば、まるで芸能誌の管轄のように思われてきた。それを親しまれる皇室論として許容してきた保守派は、国家像の再構築に迫られているのだ。もっとも、一番情けないのは、このメモを振りかざして靖国批判をしている革新派である。天皇の発言に依拠して革新世論を盛り上げてどうするの。自前の理論はないのか。
ソース(イザ!・産経新聞、評論家・呉智英氏)
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| 2006年8月2日(水) |
| プール女児吸い込み事件 |
| 子供が吸水口に吸い込まれる事故はこれまで多発している。何故、同じような事故事件が繰り返されるのか恐ろしい事である。これとは直接関係無いのかもしれないが、子供が安全に遊べる場が少なくなってきているような気がする。少子化を騒ぐ前に子供が安全に遊べる場の整備に金をかけるべきである。それが蔑ろにされ続けるようでは日本はだめになってしまうだろう。 |
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| 2006年8月1日(火) |
| 靖国問題に思う |
昨日のTVタックルで浜田幸一先生が吼えていた、天皇の責任問題である。明治憲法においては天皇に開戦の責任は存在する。そうだからこそ大日本帝国の兵は陛下の臣民として全てを擲って戦線に赴いたのであり、天皇のご意思が非戦にあったとすれば、彼ら彼女らの死は一体何だったのか、そして大東亜戦争の開戦責任について、何となく曖昧にして総括していてない日本の姿を憂いているように思われた。(参考 開戦の詔勅全文)
今日の靖国問題に至る歴史問題のごたごたの本質はこの点にある。極東軍事法廷判決、サンフランシスコ講和条約によって何もかにもがリセットされたような歴史観である。小生も浜田先生の意見に賛成である。
そもそも「ハルノート」のような最後通牒を突きつけられて、戦端を開く事を決意しない民族があるとすれば、その民族は何れにせよ亡国の憂き目を見る事は明らかであり。昭和天皇が開戦の詔勅に御名御璽を与えたのは責められることでは無い。
仮に開戦を避けんがために米英の要求を呑んでいたとすれば、現在の日本は無かったかもしれない、公用語はイングリッシュになり、国民の暮らしは東南アジアの何処かの国のようになっていたかもしれない、大東亜戦争が少なくとも、「平和に対する罪」「人道に対する罪」であったかのような自虐的な錯誤に基づく歴史観を日本人自らが持ち続けるのはそろそろ止めにすべきである。 |
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