2006年8月31日(木)
おめでとう東京
最初から勝負が決まっていた出来レースでした。福岡は当馬だったのでしょうね。ただ、2016年の日本での開催は非常に難しいのではないかと思います。
話は変わりますが、古代オリンピアはギリシアのエリスの地で行われたゼウス神に捧げられる神聖な祭典競技会として知られています。
その末期は勝者への過大な褒章を目当てとした数々の腐敗を生じさせる事となり、キリスト教が古代ローマの国教となるに至って異教徒の祭典であるオリンピアは終焉を迎えた歴史があります。
一方、近代オリンピックムーブメントは古代ギリシアに魅了されていたフランスのピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって始まりを見たのですが、彼が残した名言「オリンピックは、参加することに意義がある」は近時のオリンピック競技会では忘れられているように感じられます。
近代オリンピックが古代オリンピア祭典競技会と同じ道を辿らぬよう、全人類の平和の祭典として永劫に続くように願うものであります。
2006年8月30日(水)
王子製紙TOBの行方
TOB断念の報道である。取敢えず北越紙の株価は落ち着いた価格に収斂するのであろう、この買収劇で明らかになったのは、日本の株式市場が欧米のそれとは違う価値判断で動くと言う事ではないであろうか、王子サイドのTOB価格の値決めがどのようになされたのかは判らないが、かなり奮発した価格だと感じたがそれでも何故駄目だったのか分析される必要であろう。今後紙パ業界がどのように再編されていくのか、民族資本が外資にやられて共倒れにならない事を心配している。
2006年8月29日(火)
テレビ局は何様か
日本テレビ系チャリティー番組「24時間テレビ」のマラソンで27日午後4時すぎ、高齢とみられる女性が沿道からアンガールズの腕に触れて激励したところ、後続の同行スタッフが注意する場面が中継された。このシーンがネット上でも流され、掲示板では「注意の仕方がきつい」などの批判も出た。日本テレビは「『さわらないで』と注意したが、とっさの出来事でもあり配慮に欠けたところもあった。当該スタッフに注意をしました」とコメントした。
2006年8月28日(月)
嘘つきは左翼の始まりです
第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。<産経新聞社>
昨年、集団自決を命じたとされる元帝国陸軍少佐梅澤裕氏と元帝国陸軍大尉故赤松嘉次氏の名誉を晴らすべく、岩波書店と大江健三郎氏に対して民事訴訟が起こされた事は知っていたが、信憑性の高い今回の証言によって原告全面勝訴となる事を祈っている。
「沖縄ノート」で一方的に赤松元大尉を「ペテン」「屠殺者」「戦争犯罪人」呼ばわりしたうえ、「ユダヤ人大量殺戮で知られるナチスのアイヒマンと同じく拉致されて沖縄法廷で裁かれて然るべきであったろう」と評した著者の釈明が聞きたい。
2006年8月27日(日)
テレビ局は新興宗教の教祖様
小生の事務所のすぐ近くに某テレビ局が存在する。先日その近くを歩いていたら、同じ図柄のTシャツを着た若者がぞろぞろと歩いていた。オリンピック招致運動で福岡市に雇われたアルバイト宣伝隊かと思って注視するとそうではなかった。そのTシャツには意味不明の文字が染め抜かれていた、とても薄気味の悪い光景であった。
TVと言うメディアに我々が期待するのは、芸人の苦行難行による感動物語の演出ではない事だけは言っておきたいと思った。
2006年8月26日(土)
福岡市職員を逮捕 幼児3人死亡事故
福岡市で一家5人の車が飲酒運転の車に追突され幼児3人が死亡した事故で、福岡県警東署は26日、業務上過失致死傷と道交法違反の疑いで同市職員の福岡市東区奈多3丁目今林大容疑者(22)を逮捕との新聞報道である。この事件についてTVでは加害者の実名報道がなされていないのは何故なのか疑問である。
かわいい盛りの子供を一瞬にして失った両親の悲しみを思うと胸が詰まる。それにしても橋から車を海に突き出すほどの追突スピードがどれほどのものであったのか、報道では「業務上過失致死」で現行犯逮捕となっていたが、裁判ではきっちりと判断していただきたい。
2006年8月25日(金)
びっくりする事件が多発しています
いきなり眼を突く・いきなり包丁で刺すといった事件が精神を病んだ人物によって惹き起こされている。以前に比べてその発生件数が増加傾向にあるような気がする。
精神病の発症はそんなに珍しい事ではなく誰にでも起こり得る病気である。精神病に暴力性を伴うものは稀だと精神医学の授業で教えて貰った記憶があるが、その経験的知見の前提を崩すような新種の精神病が発生しているのではないかと小生は考えている。
その新種の病気は我々が是として進めてきた社会変化に起因するものなのかもしれない、この辺で立ち止まって、自由という概念を見直さなければとんでもない事に成るのかも知れない、特にコンピューティング技術によるリアル感の喪失が、人間の脳に与える影響について仔細な検討を望みたい、所謂「表現の自由」は大事ではあるが、その持つ意味は権力に対する「言論の自由」の中に留保される権利として囲い直す必要があるのではないかと思う。
際限の無い「表現の自由」によって、人間をもって超有機体たらしめる脳を破壊することになっては元の木阿弥である。それと精神病者の犯罪に対して、社会防衛的な観点から成立した「心神喪失者医療観察法」について内容はまだまだ不十分ですが、人権団体や左翼勢力に阿る事無く厳格に運用される事が取敢えずは重要だと考えます。
2006年8月23日(水)
オリンピックの事
福岡VS東京で大騒ぎであるが、小生にとっては次の北京大会が気になって仕方が無い、果たして日本の大デレゲーションを北京で見る事が出来るのかどうかが気になっている。
北京大会までに日中間の緊張状態が今以上に増す事が予想されるからである。ナチスと極めて似た思考回路を持つ中国共産党が主催するオリンピックには平和の祭典としての違和感があると思っている。
かつてベルリンオリンピック後の欧州がナチス独逸によって蹂躙された悪夢が東亜細亜で繰り返されない事を祈りたい。
2006年8月21日(月)
よく似てますね
露西亜のプーチン大統領はロマノフ王朝の黒い悪魔・ラスプーチンの孫だそうです。噂なので真偽の程は判りませんが、並べて見るとよく似ている感じがします。この薄気味悪い目をした大統領と北方領土奪還の交渉は容易な事ではないでしょう、交渉に当たっては日本外交団は悪魔祓いをしてから臨んだほうがいいかもしれません。
2006年8月20日(日)
北方領土のおさらい
2006年8月19日(土)
根室沖蟹採り漁師虐殺事件について
この事件について日本のマスコミ各紙はあまり熱心に報道しているように見えないが、露西亜に何か借りがあるのだろうか?靖国問題ではあれだけ大騒ぎしておいて、日本の領海内で発生したのかもしれない露助による邦人殺人事件にはしらんぷりである。
この事件の発生場所の特定については、露助の言に基づく報道ばかりで、まるで領海を侵犯して花咲蟹を密猟していたので射殺されても仕方が無いかのような印象を日本国民に与えている。本当にそうであるのかの論証は蔑ろである。北方領土が不法占領されている問題によって、引かれた日露間での暫定的な中間点を侵犯して露西亜側で密漁していたとしても、射殺された海域が日本側であったとするなら、実行犯とその共犯者の即時引き渡しおよび拿捕の不法性を露西亜政府に申し入れるのが法治国日本としての立場ではないかと思う。
外務副大臣が直談判にモスクワに飛んだようであるが、子供の使いに終わる事が無いように祈っている。それから日本人として忘れてはならないのは、ソ連は「サンフランシスコ講和条約」に調印していない事。国連加盟を急ぐ為に「日ソ共同宣言」という形で鳩山内閣時にソ連とあいまいな戦後処理をした事。日本とこの国とでは未だ正式な講和条約を締結していないと言う事です。ある意味今回の悲劇は日本外交の曖昧なその場しのぎの結果であるのかもしれません。
2006年8月18日(金)
昨日の続き
水師営の会見 尋常小学読本唱歌(十巻) 明治43年7月
旅順開城 約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見に所はいずこ水師営 庭に一本(ひともと)棗(なつめ)の木 弾丸あとも いちじるく くずれ残れる 民家(みんおく)に 今ぞ相見る二将軍
(間奏)
乃木大将は おごそかに  御めぐみ深き 大君の  大みことのり 伝(つと)うれば 彼かしこみて謝しまつる  昨日の敵は 今日の友 語る言葉も うちとけて 我はたたえつ かの防備 かれは称(たた)えつ 我が武勇
(間奏)
かたち正して 言いいでぬ 「此の方面の 戦闘に 二子を失い 給(たま)いつる 閣下の心 如何にぞ」と 「二人の我が子 それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目」と大将答え 力あり
(間奏)
両将昼食(ひるげ) 共にして なおも尽きせぬ 物語「我に愛する 良馬あり 今日の記念に 献ずべし」「厚意謝するに 余りあり軍のおきてに したがいて 他日我が手に 受領せば ながくいたわり 養わん」
(間奏)
「さらば」と握手 ねんごろに別れて行くや 右左砲音(つつおと)絶えし 砲台に ひらめき立てり日の御旗

日本人は昔から人が良い民族です。この人の良さが外交では裏目に出てしまう事が屡です。今回の殺人事件の決着をどの様につけるのか注目しています。我々日本国民が考えなければならないのは、自分たちの海で同胞が理不尽な死を迎へなければならなかったのかについて思いを巡らす事です。
それとこの悲劇の根源である、強奪された北方四島の奪還については、日本が軍事強化して露西亜との第二ラウンドを戦う構えを見せない限り難しいと思います。外交交渉による返還は二島が限界だと思います。近時の露西亜政府の強硬姿勢から推し量ると、それすらも難しいのかもしれません、何れにせよ領土問題はオールorナッシングの不退転の決意が必要です。
2006年8月17日(木)
おそロシヤ
「すずめ~めじろ~ロシヤ~野蛮国~クロパトキン~金の玉~負けて逃げるはチャンチャンボー~棒でたたくは犬殺し~シベリア鉄道長けれど~土民の口から吐き出せば~バルチック艦隊全滅す~すずめ・・・」
愚息が幼児期の頃、所謂「乃木さんのしりとり歌」を教えていたところ、山手線の目白駅を通過する時に「めじろ ロシヤ 野蛮国、、、、」と呟き出して慌てた事がある。
根室沖の露助が起こした殺人事件、やっぱりねと言う感じである。
2006年8月16日(水)
公約通りですが何か?
小泉首相の靖国参拝に対して、予想通りの反応である。日本政府として執るべき立場は、この問題について「爾後支那朝鮮を対手とせず」で良いのではないかと考えます。東アジアの文明は一衣帯水と語られる事が多いのですが、仔細に見てみると支那や朝鮮と日本とでは文明の様相が極めて相違しています。

特に宗教に於いて、日本は臨機応変に、その時々の都合にあった宗教を摂取して来ました。多くの日本人は、神道によるお宮参り・耶蘇式の結婚・仏式の葬儀によって生涯を終えると言った具合で、特定の宗教宗派を深く信じている人は少数派です。宗教的な儀式のプロトコールは人生時々の歳時記を彩る道具にしか過ぎないと考えている日本人が大多数なのかもしれません。

お寺や神社にお参りに行くのに、自らを無神論者と云う不可思議な宗教観を持っているのが日本人です。しかしながら、日本人は信仰心が薄いと単純には言えません、寧ろ日本人は日本教とでも言うべき「宇宙自然を動かしている偉大な力に対して敬虔な祈りと畏れ」を有史以来忘れた事が無い信仰心に篤い民族だと思います。

日清・日露・満州事変から始まる中国大陸での戦いは、東亜細亜における支那儒教文明とロシア正教文明と日本文明の三つ巴の覇権争いに、西洋文明がその利害得喪から加わった文明間の争いであり。それは原爆に象徴される圧倒的な火力を備えた西洋文明を仕切り役にする事によって収まりを見ました。そしてそれが結果的には亜細亜の諸国家が西洋文明に併呑されることの閂となったのです。

靖国問題は以上の文明論的文脈から考える必要があると思います。東亜細亜に於ける諸文明間で起きた挑戦と応戦は、日本においては天皇の人間宣言を経て、天皇を神から象徴に置換し恰も西洋における立憲君主制のように看做すことによって、見事に日本文明の核である天皇制を換骨奪胎し民主主義を取り入れることに成功しました。日本文明に西洋文明を接木し日本と西洋の文明間の鬩ぎあいは止揚されたのですが、依然として東亜細亜には日本文明・支那儒教文明・ロシア正教文明間の覇権争いは、地下に蠢くマグマのように残ったと言う事実です。そのマグマが時折噴出す現象として歴史認識問題やら靖国問題があるのだと考えます。

従って、支那・朝鮮・ロシアとは今後も事あるごとに、この争いを表象する出来事が今後も頻発すると考えるのが至当だと思います。そしてこの争いは支那儒教文明とロシア正教文明が日本文明がそうであった様に西洋文明の重要なエートスである民主主義を包摂して止揚されることによってしか解決されないのではないかと思います。日本人にとっては気の重い話です。
2006年8月14日(月)
神道についての私観
神道の神とGODは異質である。神道は西洋流の概念から言えば、アニミズム汎神論の宗教と定義されるかもしれない、一方宗教とはシュライエル・マッハーの言説によれば「聖なるものへの絶対帰依」とされる。
西洋流の物差で「神道」を見る事に、私は違和感を覚える、多くの日本人は先祖・自然・人工物etc.自分たちが決めたあらゆるものに畏れを抱き、それら精霊のお蔭様で心安く生かされていると感じている。
日本文明を発展させてきたエンジンは、何千年にも亘り培われてきた融通無碍な精神文化にあると言えば言い過ぎであろうか?
靖国問題を考えるにあたり、この精神文化に難癖をつける言論はナンセンスであり、諸外国の感情に配慮すると言う耳触りだけが良い主張に至っては意味不明の戯言である。
靖国神社境内の土産物屋で「純ちゃん饅頭」が売れているそうである。神道は懐が深い。
2006年8月12日(土)
靖国神社のこと
小生はかねてより「靖国」は日本人全体の「まほろば」ではないと主張している。理由は「過去の独り言」に記しているので、敢えて、ここではその理由の詳細は述べないが、それをもって靖国神社の存在を否定するものではない、大東亜戦争において「靖国で逢おう」とお国のために散華された「兵士」と「靖国」との黙契には重いものがあると心得ている。
公人の靖国参拝問題は外国人にとやかく言われる筋合いのものではない、我々日本人の問題である。そこに祀られてある英霊に手を合わせ「戦争には敗れましたが、お蔭様で日本はこんな立派な国になることができました」「靖国に眠る英霊の御霊安らかなれ」「再度日本が戦争の惨禍に見舞われぬよう、お守り下さい」と国に殉じた方々へ語りかけるのが悪い事とは露ほどにも考えた事は無い。
「東亜永遠の平和を確立し、以て帝国の光栄を保全せむことを期す」の大義のもとに戦った帝国軍人の多くは、死すれば靖国に還って英霊となる約束に帰依していた事を我々日本人は忘れてはならない、その死生観についての善悪を戦後の後知恵で判断しようとする事は、とんでもなく傲岸不遜で許すべからざる態度であると思う、外から聞こえてくる雑音は無視すれば良い、いちいち抗弁しなければならない問題ではないのである。
小生は公人としての靖国参拝には、その建立の歴史的経緯から疑問を持っているが、8月15日に小泉首相が参拝されること希っている。何故ならそれが現下の東アジアの国際情勢にとって日本外交がとるべき姿勢を暗喩することにも通じるからである。国益を慮らぬ外国勢力に阿る売国マスコミには黙らっしゃいと一刀両断すればよいだけの話である。
2006年8月11日(金)
ご冥福をお祈りします
砲丸投げの森千夏選手(26)が9日ご逝去された。
先のアテネオリンピックデレゲーションのお一人である。アテネではハンマーの室伏選手に注目が集まっていたが、その中で砲丸投げに女子日本人選手が出場することに驚きを感じていた、森選手は18メートル22の日本記録保持者で日本の投擲競技の進歩に感心した事が思い出される。
男子7.26kg.女子4.00kg.の鉄球を遠くへ飛ばすこの競技はいかにも力自慢を競うように見えるが、これほど重いものをベースボールの様に投げようものなら、肩が抜けてしまう事を砲丸を持った事がある者なら理解できる。
「砲丸投げ」ではなく「Shot Put」(撃ちだして置く?)と言う英語名のほうがピッタリくる、遠くに飛ばす為には力だけではない身体調整力が要求される競技である。
森選手のご冥福をお祈り申し上げます。
2006年8月9日(水)
ふと思った事
東京・東大和市の特別養護老人ホーム「さくら苑」で、男性職員2人が認知症の女性入所者(90)への性的虐待とのニュースに、学生時代に読んだ深沢七郎の「楢山節考」が思い浮かんだ。当時小生は深沢の左翼的言説がどうかと思ってはいたが、天皇制や三島事件に関しての本質を抉り出す彼のもの言いにはこれは手ごわい左翼?が現れたものだと妙に感心したものであった。
楢山節考は棄老伝説をモティーフにしたずしりと重い読後感を残す小説であった。語弊があるかもしれないが、特別養護老人ホームは現代の姥捨山である。過去の姥捨山との違いは死が積極的か消極的であるかの違いにしか過ぎない、そこにあるのは予定調和としての同じ人の死である。人間には幸せな死の形があるのではないかと思う、果たして息子に背負われ「お山まいりに赴いたおりん」と虐待をうけた「認知症の女性入所者」とではどちらが幸せな人生なのか小生には判断がつかない。

立止まって目の前を見つめた。楢の木の間に白い粉が舞っているのだ。
雪だった。辰平は
「あっ!」
と声を上げた。そして雪を見つめた。雪は乱れて濃くなって降ってきた。ふだんおりんが、「わしが山へ行く時ャきっと雪が降るぞ」と力んでいたその通りになったのである。辰平は猛然と足を返して山を登り出した。山の掟を守らなければならない誓いも吹きとんでしまったのである。雪が降ってきたことをおりんに知らせようとしたのである。知らせようというより雪が降って来た!と話し合いたかったのである。本当に雪が降ったなあ!と、せめて一言だけ云いたかつたのである。辰平はましらのように禁断の山道を登って行った。
おりんのいる岩のところまで行った時には雪は地面をすっかり白くかくしていた。岩のかげにかくれておりんの様子を窺った。お山まいりの誓いを破って後をふり向いたばかりでなく、こんなところまで引き返してしまい、物を云ってはならない誓いまで破ろうとするのである。罪悪を犯しているのと同じことである。だが「きっと雪が降るぞ」と云った通りに雪が降ってきたのひとことだ。これだけは一言でいいから云いたかつた。
辰平はそっと岩かげから顔を出した。そこには目の前におりんが坐っていた。背から頭に筵を負うようにして雪を防いでいるが、前髪にも、胸にも、膝にも雪が積っていて、白狐のように一点を見つめながら念仏を称えていた。(楢山節考より)
2006年8月8日(火)
亀田騒ぎ
タイトルマッチの判定がどうのこうのと騒ぎになっているようである。プロボクシングにフェアーな判定を求める事は不毛と考えるので小生はとやかく言わない、戦いが始まる前にリングアナが宣言した通り「It' s a show time 」なのである。
その見世物に過ぎぬものに、親子愛だとか兄弟愛をからませて、一つの美談を作り上げようとするTBSの節操の無さにあきれるばかりである。このテレビ局はオウム幹部に事前にVTRを視聴させ、それが坂本弁護士一家の皆殺し事件につながった過去を持っている。この放送局に免許を与える必要があるのかどうかも疑問である。
TBSは亀田父子の親子愛を賞賛する物語をでっち上げたいのであろうが、彼ら家族の極めて身贔屓で偏狭で不寛容で無礼な愛情表現のスタイルは、嘗ての奥ゆかしさと他者に対しての思いやりを尊ぶ日本人の感性からは程遠いものであり、そのような立ち居振る舞いや考え方をする者は、擬制的な家族関係を契る暴力団などの反社会的な奇形にしか見られなかったと思うが如何であろうか?
小生は彼らの親子愛に涙する日本人がいることに、一種の驚きと日本人として気恥ずかしささえ覚えるものである。レスリングの浜口親子やゴルフの横峰親子には微笑ましさが感られるのに対して亀田親子には共感できない無いのは何故であろうか?天下茶屋でしか通用しなかったパフォーマンスが日本全国に蔓延するの真に恐れている。
2006年8月7日(月)
まさに正論だと思います。ソース:産経新聞1面「日本よ」石原慎太郎
この所の北朝鮮からのミサイル発射に関しての騒ぎを眺めていて、 関係諸国の論調にある決定的な認識がかけているのに気付かされる。それは北朝鮮のミサイルがまがいもなく日本への害意にのっとって運用されるとするなら、わが国にはそれに対して備え、報復を行う国家としての権利がありまたその能力も十分にあるということだ。

北朝鮮の高官たちは日本がもし拉致問題にからめて経済制裁を行うなら瞬時にして日本を火の海にしてみせるなどと揚言しているが、そうした軍事的能力が彼等にあるかどうかは疑問だが、仮にそれがあるとしてもなお、実際にそれを行うほど彼等も愚かではありはしまいし、もし彼等がそれを行ったとしたらアメリカは日米安保にのっとってその報復を行わざるを得まい。相手が中国となればアメリカに躊躇もあろうが、北朝鮮と同盟国である日本のいずれかを取るかという選択にアメリカは躊躇しまいし、すればアメリカは踏み絵を踏み外すことにもなる。

アメリカがことを起こせば北の独裁政権は瞬時に近く崩壊しようし、非難こそしても、それは実は中国にとっても望ましいことに違いない。南の韓国が歯がみしようと、今現在実質的に中国の属国である北朝鮮は、はっきりと中国の所領となってしまうだろう。

そんな推測分析の前に、北のミサイルが実際に日本に射ちこまれた際、いやその可能性が如実なものとなった際の日本の選択について、実は誰もそれをことの重要な要因として考慮に入れていないということの軽率さ不思議さである。それは多分日本の「平和憲法」なるいびつな国家規範が日本人に与えてきた思考への制約が、実は関係諸国にも日本の選択に関してのある種のアプリオリを設定してしまっているからに違いない。それは核武装を含めての日本の強力な軍事国家化という選択の可能性についてである。

以前、私も属している自由社会研に亡き盛田昭夫氏との関わりで度々来席していたキッシンジャーが、日本側の誰もいい出しもせぬのに、日本の核武装の可能性について何度か付言していたのを今になって強く思い出させられる。アメリカの国力が衰退し、日本がアメリカ以外の国とのかかわりで追いつめられた時の選択として、と彼はいっていたが。

先月のウォールストリート・ジャーナル紙は社説として、北朝鮮問題での中国の拒否権発動や、韓国の日本からの敵基地攻撃論への非難は「日本に軍事力増強の必要性を認識させるだけだ」と警告し、日本の「国家主義的感情が高まれば核保有の抑制は難しいこともありうる」と記している。

日本という国は外圧に弱く、外圧によって往々思いがけぬ方向転換を行ってきたが、将来北朝鮮なり中国なりによる日本領土への明確な侵犯、毀損が行われたならばそれは彼等自身に向けての強い引き金になりかねぬ、ということを関係国は知るべきに違いない。そして日本にはそれを極めて短時間で実現するための技術を含めた潜在能力があるということを、すでに熟知しているアメリカや中国だけではなしに、遅ればせながら日本人自身も知っておくべきに違いない。「日本こそが、眠れる獅子なのだ」というのは岡崎久彦氏のかつての至言だが。

アメリカの国力が衰退傾向にある現今、かつてのソヴィエトに次いでの中国との新しい緊張関係の舞台となった東アジアは、かつての冷戦の主戦場だったヨーロッパに比べてアメリカにとっての比重は軽いものに違いない。そうした戦略構造の中でアメリカが日本に対する責任を放棄した時、我々はそのまま野垂れ死にして中国の覇権に組み込まれるつもりは毛頭ない。

私はかつて驚くことに日本の議員としては初めて、アメリカの戦略基地のNORADとSACを視察し当時の核戦略の技術体系からして、日本で喧伝されているアメリカの核抑止力など実在しないと、NORADの司令官の見解を引用しながら論証し、拙速な論評で核保有論者とされたことがある。加えて当時の繊維問題摩擦を背景に行われた世論調査の結果は、日本の核保有の是非についての非が36%、是が35%という際どい数字だったものだ。

しかし、核戦略の技術体系が進歩変質してきた今、アメリカと中国のレベルの格差はかつての米ソ間以上のものがあろうが、戦争による人命の損失についての価値観に関してはソヴィエトと中国ではこれまた著しい差がある。ポンドピーに問われて、アメリカとの核戦争で三千万程度の人命の損失は一向に気にしないといい切った、現に合わせれば七千万もの国民を餓死も含めて死に追いやった毛沢東を唯一の国父として仰ぐ共産党政権がそうした伝統と信念の下に進めば、東アジアを舞台にした緊張が高まっていくことは必至だろう。

質の悪い高度成長を続ける中国の経済成長が質の良い低成長に変わる可能性は見られず、このままいくと遅くとも北京オリンピックの直後、中国バブルは破綻し、政府が膨大な量の不良債権を抱えることになるのは必至である。中国の全企業の内政府関係の公営企業の数はその60%、そして中国で出回っている金融資本総量の70%は公営企業に向けられているのだから。

そうなった時、北京政府が国民の目をそらせ経済破綻を糊塗し、内部の分裂を食い止めるために軍事的な冒険主義に走る可能性は十分にありえる。それに間に合わせての準備の時間はあまりないということを我々は知るべきに違いない。
2006年8月5日(土)
王子製紙のTOBに思う
北越製紙に対する敵対的TOBと騒がれているが、この買収劇は村上ファンドや堀江ライブドアーがやったマネーゲームとは違います。背景には将来、株式交換による企業買収が外資にも可能になる事への防衛策の布石であるとも考えられます。
粗鋼生産量世界1位の印僑ミタルも国を跨ぐ買収劇を繰り返して今日の地位にのしあがったのです。これから先、外社による買収の渦に日本企業も否応無く巻き込まれていくと思われます。仮に新日本製鉄がミタルスティールの軍門に降る事があれば日本人はそれにどう折り合いをつけていくのでしょうか、その時になって初めてグローバルスタンダードの真の意味を知っても遅いのです。
今日、資本集約型の産業が生き残る前提として規模の利益が必要とされるのが現実となっています。日本の産業史を紐解けば、王子製紙は渋沢栄一によって創設された国策企業でありました。
敗戦後、過度経済力集中排除法によって苫小牧製紙・本州製紙・十條製紙(後の日本製紙)に分割された沿革を持っています。その王子製紙がTOBによって、先祖帰りして紙パ業界の王者として君臨し生き残れるのかどうか見ものであります。弟会社の日本製紙がその阻止を目論んでいるのも歴史の因縁として見れば興味深いものです。
最後にくれぐれも言っておきます、王子製紙が所有していた樺太の森林と工場設備は敗戦によりロシア所有となり現在も稼動しているそうです。今度はグローバルスタンダードよって紙パ業界が外資に買収され、日本の多くの森林が外人の手に落ちてしまったら政府が推し進めた規制緩和は一体全体誰の為のものであったのかが問われるでしょう、竹中平蔵大臣を誅するだけでは済まない問題です。
2006年8月3日(木)
極めて正論、全文を掲載させていただきます
先月二十日、靖国神社のA級戦犯合祀に昭和天皇が不快感を示したとする当時の宮内庁長官のメモが公表され、大きな衝撃とともにさまざまな議論を呼び起こしている。しかし、管見の範囲では、どの議論もそれまでの自説持論を衝撃から守ろうとするものばかりで、大事なことを論じようとしていない。大事なこととは、国家意志と天皇制の整合性の問題である。

A級戦犯となったのは、普通の意味での犯罪者ではなく、国家意志の遂行者・体現者である。だからこそ戦勝国がその首を求めたのだ。A級戦犯は日本国のために日本国を代表して命を投げ出した。個々のA級戦犯の人物・能力への評価はいろいろありうるが、それがどうであろうと、国家意志の遂行者・体現者だという位置づけは揺るがない。それを天皇が否(いな)んだということは、国家と天皇との間には、普段は見えないが、本質的な乖離(かいり)があるということである。

近代国家でなければ、こうした乖離は生じない。近代国家においては、国家が天皇を裏切り、天皇が国家を見限ることがありうる。二・二六事件にもこうした乖離がうかがえるし、三島由紀夫は『英霊の声』で「などてすめろぎはひととなりたまいし」と怨言している。

最近の天皇制議論といえば、まるで芸能誌の管轄のように思われてきた。それを親しまれる皇室論として許容してきた保守派は、国家像の再構築に迫られているのだ。もっとも、一番情けないのは、このメモを振りかざして靖国批判をしている革新派である。天皇の発言に依拠して革新世論を盛り上げてどうするの。自前の理論はないのか。

ソース(イザ!・産経新聞、評論家・呉智英氏)
2006年8月2日(水)
プール女児吸い込み事件
子供が吸水口に吸い込まれる事故はこれまで多発している。何故、同じような事故事件が繰り返されるのか恐ろしい事である。これとは直接関係無いのかもしれないが、子供が安全に遊べる場が少なくなってきているような気がする。少子化を騒ぐ前に子供が安全に遊べる場の整備に金をかけるべきである。それが蔑ろにされ続けるようでは日本はだめになってしまうだろう。
2006年8月1日(火)
靖国問題に思う
昨日のTVタックルで浜田幸一先生が吼えていた、天皇の責任問題である。明治憲法においては天皇に開戦の責任は存在する。そうだからこそ大日本帝国の兵は陛下の臣民として全てを擲って戦線に赴いたのであり、天皇のご意思が非戦にあったとすれば、彼ら彼女らの死は一体何だったのか、そして大東亜戦争の開戦責任について、何となく曖昧にして総括していてない日本の姿を憂いているように思われた。(参考 開戦の詔勅全文)
今日の靖国問題に至る歴史問題のごたごたの本質はこの点にある。極東軍事法廷判決、サンフランシスコ講和条約によって何もかにもがリセットされたような歴史観である。小生も浜田先生の意見に賛成である。
そもそも「ハルノート」のような最後通牒を突きつけられて、戦端を開く事を決意しない民族があるとすれば、その民族は何れにせよ亡国の憂き目を見る事は明らかであり。昭和天皇が開戦の詔勅に御名御璽を与えたのは責められることでは無い。
仮に開戦を避けんがために米英の要求を呑んでいたとすれば、現在の日本は無かったかもしれない、公用語はイングリッシュになり、国民の暮らしは東南アジアの何処かの国のようになっていたかもしれない、大東亜戦争が少なくとも、「平和に対する罪」「人道に対する罪」であったかのような自虐的な錯誤に基づく歴史観を日本人自らが持ち続けるのはそろそろ止めにすべきである。